九品寺は實義山天窓院と号し、慶長三年(1598)吟誉(ぎんよ) 上人によって現在地に草創されました。五年後の慶長八年(1603)に徳川家康が江戸幕府を開きます。幕府の基盤も確立したと伝えられる寛永六年(1629)、当時の中興開山の祖である天誉吟徹(てんよぎんてつ) 上人によって諸堂宇が建立され、京都総本山知恩院の直末寺となりました。万治三年(1660)、吟徹上人は、明暦三年(1657)の大火による殉職者供養のため、唐銅の露仏・阿弥陀如来像を建立しました。

元禄年中(1688〜703)に入ると、江戸幕府の治政も安定し、庶民の間に物見遊山をかねた寺社詣でが盛んになり、当時にも境内にある露仏・阿弥陀如来や霊験顕かなことで知られる沓履(くつばき)地蔵尊へ参詣する人びとが、あとを絶たなかったというのもこの頃からのことでしょう。

寛政年中(1789〜800)、当時境内に九品仏堂(二間四方のお堂が九個、その中に九種の印を結んだ九体の阿弥陀如来を安置)が建立され、弥陀三尊、二十五菩薩も安置され、九品寺の寺運は隆昌の一途を辿(たど)ったといわれています。それは、当時の大檀越として外護に当たった、越前鯖江(さばえ)藩五万石の間部氏を筆頭に、能楽師喜多流の喜多氏、水泳師範として幕府に仕えた向井氏をはじめとする檀信徒家の信施によるところが大きかったからでしょう。

文化・文政(1804〜29)の頃になると、九品寺は旗本寺として知られる一方、過去帳によると広い階層にわたる人びとが当寺を菩提寺と定めていたことがわかります。(記録によると境内総坪数千七十二坪と記載されています。)

慶応四年(1868)江戸幕府が崩壊、全国の各寺院は一様に荒廃への道を辿りますが、記録によれば九品寺はわずか十年後にはみごとに再興されていることがわかります。 大正十二年(1923)関東大震災で堂宇全焼、二年後には堂宇再建。昭和二十年大東亜戦争により堂宇焼失。二年後仮本堂を建立。戦後三十八年目の昭和五十九年(1984)当山第二十二世住職道誉正順上人により現在の本堂が建立され九品寺が復興、現在に至っております。

住職 荻野順雄
九品寺第23世住職・花川戸保育園理事長

江戸時代に越前鯖江藩(福井県)五万石を領した間部(まなべ) 家は、九品寺を菩提寺とし、間部家歴代当主は常に大檀越として当寺の外護にあたり、寺運隆昌に貢献しました。当寺を菩提寺と定めた 詮房(あきふさ)は六代将軍家宣(いえのぶ)、七代将軍家継(いえつぐ)に仕え、新井白石とともに幕政の中心に立って治政につくし、数々の業績を残しています。特に詮房と白石が貞享四年(1687)に綱吉によって出された「生類憐(しょうるいあわ)れみの令」を廃止したことは、庶民がなめた苦痛を開放し人びとは新時代の到来を双手をあげて喜んだといいます。

現在間部家歴代の墓所は、多磨墓地の中にある九品寺境外墓地に移されています。